2018/02/18

暖かい

演フェス鴨川2-18
日でした。心なしかヤナギが色づいたように思われました。マラソンが行われていました。歩いている人もみられました。
 演フェスの最終日です。舞台を走り回っています。何をしているのかよく分かりませんが、出演している人はそれなりに面白いのでしょうね。動きをどのように取り入れるのかは難しいのでしょう。動きがなく、語っているのも何か面白くありません。
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2018/02/17

演フェス

演フェス2-17
を観てきました。児童、シニア、専門家といった人たちの演技を観られるのも楽しいです。ただ、難しいのには悩まされます。
 今回の中では、”雪渡り”を軸に”注文の多い料理店”、”なめとこ山の熊”を織り交ぜて、一つの話しにしているのが、面白く考えさせられました。
2018/02/16

読み方

柊鴨川2-16
など、どちらでもいいということなのでしょうか。ちょっと気になりました。
 ユリカモメの姿が見られません。今日は少し暖かい日でした。どこにいったのでしょう。いつもユリカモメが見られる場所にカモが群がっていました。
2018/02/14

庭の梅

梅蓮如2-14
が咲き始めました。月日の経つのは早いものです。
 「まことのみ旨」の話しがありました。私のふだんの行いといえば、大経に出ています。ちょっと考えさせられます。
 「世人、薄俗にして共に不急の事を諍う。この劇悪極苦の中において身の営務を勤めて、もって自ら給済す。尊もなく卑もなし。貧もなく富もなし。少長男女共に銭財を憂う。」 仏説無量寿経巻下
 ところで何で聴聞するのでしょう。”救い”を求めるのでしょうが、その救いについて、「筆始めの御文」によって、一楽真師は(日本人のこころの言葉 蓮如 創元社)で次のように述べています。104-105頁 ”仏をも自分の思いで価値づけしていくのです。蓮如はこのような、なんでも自分の思いで価値づけしていく生き方こそが問題であるとしています。人間の力では天変地異を止めることはできません。また、自分の身ひとつも自分の思いを超えています。こんなはずではなかったという目に遭い続けるのが実際ではないでしょうか。それを邪魔者と考え、だれかに取り除いてもらうようお願いするのではないのです。”  ”いろいろなことが次々に起こってくるなかを、価値づけを離れて生ききっていくところに念仏の意義があるのです。それが阿弥陀によってたすけられることの内容だと語られているのです。”
 「たとひ名号をとなふるとも、仏たすけたまへとはおもふべからず。ただ弥陀をたのむこころの一念の信心によりて、やすく御たすけあることのかたじけなさのあまり、弥陀如来の大悲御たすけありたる御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべきなり。」 筆始めの御文
2018/02/13

久しぶりの

聞法です。4人の話しを聞きましたが、何かもうひとつといったところでした。やみくもに聞けばいいということでもないのでしょう。
法然親鸞2-14
 法然の思想 親鸞の実践(佐々木正 青土社)を読みました。行者宿報偈の記述は面白かったのですが、”あとがきにかえて”で述べられている内容には?です。それは秋葉原事件の犯人Kについての264頁にある記述です。
 「もしもこのKの眼前に、”行者宿報設女犯 我成玉女身被犯(行者ガ宿報ニシテ設イ女犯ストモ 我玉女ノ身トナリテ犯セラレン)”の存在が顕現したと仮定すると、Kは坂道を転げ落ちる一歩手前で、踏みとどまれたと仮想したくなる。」
 こんな仮定をたてることの意味がどこにあるのでしょう。どのような状況であれ、仏に出遇っていくことが大事なのではないでしょうか。
2018/02/12

緞帳

文芸会館2-12
が変わっているように思って、ネットで調べてみましたが、わかりませんでした。
 群読がよかったです。
2018/02/11

梅の花

興正寺2-11
が咲き始めていました。
 不条理劇のようなものを観ました。途中から、こんなことがあっていいのかと、何かいらいらするものを感じます。一人芝居も観ました。いろいろなテクニックがつまっているように思えます。
2018/02/10

馬鹿みたい

なミスをしてしまいました。身と心はどうなっていたのでしょう。ちょっと気が緩んだのでしょうか。身が動いてしまったようです。何か違っていると気がついても、どこがどうなっているのかわからないまま、身だけは勝手に動いていました。こんなこともあるのですね。終わってみればあっけないといった感じです。
2018/02/07

北陸は

東本願寺2-7
豪雪と聞きますが、こちらはのどかなものです。自分のことしか考えてはいません。加えて、心の中では善き人と思っています。”この身の器量にては”という思いです。そうではなく”業縁なきによりて”なのだと諭されてしまいます。
 こんな話しがありました。 ”人を噛んだマムシだけがマムシであるのではなく、いつ、人を噛むかもしれない私もやはりマムシであるのだ”。 ここまでは思いが及びません。
2018/02/06

今日は

黒豆2-6
一日家に籠もっていました。黒豆の選別と確定申告書の作成をしていました。
2018/02/04

今日

東本願寺2-4
も聴聞してきました。出遇いの不思議を感じさせられます。
2018/02/03

聴聞

山科別院2-3
してきました。ロウバイが咲いていました。
2018/02/02

鴨川

鴨川鳥2-2
をぶらつきました。ユリカモメ、カモ、鳶がみられました。カモの餌を取る姿に興味がわきます。
2018/01/31

平日

浜松市1-31
とはいえ、この閑散とした通りはどうなっているのでしょう。50年前の面影もありません。
2018/01/30

ヨーガ

桃山御陵1-30
をしてきました。簡易体操、基本体操はきちっとやると結構きついです。この階段を登るのもきついです。今日の寒さもきついです。
2018/01/27

祝賀会

ヨーガ1-27
がありました。日ごろのヨーガの大切さが身にしみます。
2018/01/25

晴れてはいる

東本願寺1-25
のですが、雪のちらつく天気でした。今日も寒い日でした。
 聴聞してきました。三つの髻の話しがありました。ただ、現実をみるなら、三つの髻を剃り捨てることなの出来るのでしょうか。かつて聞いた、雑行を捨てることが出来るのでしょうか、といった話しを思い出します。捨てることの出来ない身であることに気付く、このことを問い続けていくことが大事なのでしょう。

 あるとき鸞上人、黒谷の聖人の禅房へ御参ありけるに、修行者一人御ともの下部に案内していわく、「京中に八宗兼学の名誉まします智恵第一の聖人の貴坊やしらせたまえる」という。この様を御ともの下部、御車のうちへもうす。鸞上人のたまわく、「智恵第一の聖人の御房とたずぬるは、もし源空聖人の御事か、しからば、われこそただいま、かの御坊へ参ずる身にて、はんべれ。いかん。」修行者申していわく、「そのことにそうろう。源空聖人の御ことをたずね申すなり」と。鸞上人のたまわく、「さらば先達すべし、この車にのらるべし」と。修行者おおきに辞し申して、「そのおそれあり。かなうべからず」と云々 鸞上人のたまわく、「求法のためならば、あながちに隔心あるべからず、釈門のむつび、なにかくるしかるべき。ただのらるべし」と。再三辞退もうすといえども、御とものものに、「修行者かくるところのかご負をかくべし」と御下知ありて御車にひきのせらる。しこうして、かの御坊に御参ありて空聖人の御前にて、鸞上人「鎮西のものと申して、修行者一人、求法のためとて御房をたずね申して侍りつるを、路次よりあいともないてまいりてそうろう。めさるべきや」と云々 空聖人「こなたへ招請あるべし」とおおせあり。よりて鸞上人、かの修行者を御引導ありて、御前へめさる。そのとき空聖人、かの修行者をにらみましますに、修行者また聖人をにらみかえしたてまつる。かくてややひさしくたがいに言説なし。しばらくありて空聖人おおせられてのたまわく、「御坊はいずこのひとぞ、またなにの用ありてきたれるぞや」と。修行者申していわく、「われはこれ鎮西のものなり。求法のために花洛にのぼる。よって推参つかまつるものなり」と。そのとき聖人「求法とはいずれの法をもとむるぞや」と。修行者申していわく、「念仏の法をもとむ」と。聖人のたまわく「念仏は唐土の念仏か、日本の念仏か」と。修行者しばらく停滯す。しかれども、きと案じて、「唐土の念仏をもとむるなり」と云々 聖人のたまわく、「さては善導和尚の御弟子にこそあるなれ」と。そのとき修行者ふところよりつま硯をとりいだして、二字をかきてささぐ。鎮西の聖光坊これなり。この聖光ひじり、鎮西にしておもえらく、「みやこに世もて智恵第一と称する聖人おわすなり。なにごとかは侍るべき。われすみやかに上洛して、かの聖人と問答すべし。そのとき、もし智恵すぐれてわれにかまさば、われまさに弟子となるべし。また問答にかたば、かれを弟子とすべし」と。しかるに、この慢心を空聖人、権者として御覧ぜられければ、いまのごとくに御問答ありけるにや。かのひじりわが弟子とすべき事、橋たてても、およびがたかりけり、と。慢幢たちまちにくだけければ、師資の礼をなして、たちどころに二字をささげけり。両三年ののち、あるとき、かご負かきおいて、聖光坊、聖人の御前へまいりて、「本国恋慕のこころざしあるによりて、鎮西下向つかまつるべし。 いとまたまわるべし」と申す。すなわち御前をまかりたちて出門す。聖人のたまわく、「あたら修学者が、もとどりをきらでゆくはとよ」と。その御こえはるかにみみにいりけるにや、たちかえりて申していわく、聖光は出家得度して、としひさし、しかるに本鳥をきらぬよし、おおせをこうぶる、もっとも不審。このおおせ耳にとまるによりてみちをゆくにあたわず。ことの次第うけたまわりわきまえんがために、かえりまいれり」と云々 そのとき聖人のたまわく、「法師には、みつのもとどりあり。いわゆる勝他・利養・名聞、これなり。この三箇年のあいだ源空がのぶるところの法文をしるしあつめて随身す。本国にくだりて人をしえたげんとす。これ勝他にあらずや。それにつきて、よき学生といわれんとおもう。これ名聞をねがうところなり。これによりて檀越をのぞむこと、所詮、利養のためなり。このみつのもとどりをそりすてずは、法師といいがたし。よって、さ申しつるなり」と云々 そのとき聖光房、改悔の色をあらわして、負のそこよりおさむるところの抄物どもをとりいでて、みなやきすてて、またいとまを申していでぬ。しかれども、その余残ありけるにや。ついにおおせをさしおきて、口伝をそむきたる諸行往生の自義を骨張して、自障障他する事、祖師の遺訓をわすれ、諸天の冥慮をはばからざるにや、とおぼゆ。かなしむべし、おそるべし。しかれば、かの聖光坊は、最初に鸞上人の御引導によりて、黒谷の門下にのぞめる人なり。末学、これをしるべし。     口伝鈔
2018/01/23

身と心

寺掲示1-23
とは何でしょう。心は強いですね。なかなか折れません。身を家来のように扱います。
身のつく和讃の紹介がありました。


浄土和讃

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり 法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり

安楽声聞・菩薩衆 人・天智慧ほがらかに 身相荘厳みなおなじ 他方に順じて名をつらぬ

顔容端正たぐひなし 精微妙躯非人天 虚無之身無極体 平等力を帰命せよ

七宝講堂道場樹 方便化身の浄土なり 十方来生きはもなし 講堂道場礼すべし

一々のはなのなかよりは 三十六百千億の 仏身もひかりもひとしくて 相好金山のごとくなり

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて 諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ

無明の大夜をあはれみて 法身の光輪きはもなく 無碍光仏としめしてぞ 安養界に影現する

南無阿弥陀仏をとなふれば 観音・勢至はもろともに 恒沙塵数の菩薩と かげのごとくに身にそへり

超日月光この身には 念仏三昧をしへしむ 十方の如来は衆生を 一子のごとく憐念す

染香人のその身には 香気あるがごとくなり これをすなはちなづけてぞ 香光荘厳とまうすなる


高僧和讃

鸞師こたへてのたまはく わが身は智慧あさくして いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず

諸仏三業荘厳して 畢竟平等なることは 衆生虚誑の身口意を 治せんがためとのべたまふ

弥陀の名願によらざれば 百千万劫すぐれども いつつのさはりはなれねば 女身をいかでか転ずべき

煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなはち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ

煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり

五濁悪世の衆生の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり

南無阿弥陀仏をとけるには 衆善海水のごとくなり かの清浄の善身にえたり ひとしく衆生に回向せん


正像末和讃

劫濁のときうつるには 有情やうやく身小なり 五濁悪邪まさるゆゑ 毒蛇・悪竜のごとくなり

正法の時機とおもへども 底下の凡愚となれる身は 清浄真実のこころなし 発菩提心いかがせん

五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり

釈迦・弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心はえしめたる 信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ

往相・還相の回向に まうあはぬ身となりにせば 流転輪廻もきはもなし 苦海の沈淪いかがせん

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし

聖徳皇のあはれみて 仏智不思議の誓願に すすめいれしめたまひてぞ 住正定聚の身となれる

多生曠劫この世まで あはれみかぶれるこの身なり 一心帰命たえずして 奉讃ひまなくこのむべし

浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし

外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ 貪瞋邪偽おほきゆゑ 奸詐ももはし身にみてり

無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ

小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ 如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき

是非しらず邪正もわかぬこのみなり 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり
2018/01/22

みぞれ

南禅寺1-22
の降る寒い日とはなりましたが、梅の花数は一段と多くなっていました。
 練習も台詞の間の取り方、リアクションなど、厳しさが増しています。簡単には対応できず、混乱してきます。気楽にはかまえていますが、さてどうなるのでしょう。
2018/01/21

弘法市

東寺1-21
をのぞいてきました。おりんがずいぶん高く売られていました。衝動買いしなくてよかったです。カメラがまたバッテリー切れです。スマホで撮りましたが、扱いがよくわかりません。適当にいじっていたら写真が出てきました。
2018/01/20

脱穀

脱穀1-20
をしてきました。どんどん先延ばしされていきます。
2018/01/19

カメラ

木幡池1-19
の先に何がいるのでしょう。興味の無いものにとって、寒いところに立っているのはかないません。
2018/01/17

ボケ

が始まったようです。何とも情けないことです。昨日はヨーガの練習を忘れ、今日は病院に行くことを忘れていました。どうなっているのでしょう。
 ネットでの聴聞も楽しいです。寝ころんだり、何か食べながらで聞くことが出来ます。ちょっとだらけてしまいます。というわけで、運動がてらに聴聞してきました。
 気になったお言葉を記しておきます。今生の一大事は健康で豊かな生活、後生の一大事は死ぬぞという話しは面白いです。

聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせられ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。      聞書 (188)

人間はただ電光朝露の夢幻のあひだのたのしみぞかし。たとひまた栄華栄耀にふけりて、おもふさまのことなりといふとも、それはただ五十年乃至百年のうちのことなり。もしただいまも無常の風きたりてさそひなば、いかなる病苦にあひてかむなしくなりなんや。まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。 これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。 御文1帖 (11)

この世界のならひは老少不定にして電光朝露のあだなる身なれば、いまも無常の風きたらんことをばしらぬ体にてすぎゆきて、後生をばかつてねがはず、ただ今生をばいつまでも生き延びんずるやうにこそおもひはんべれ。あさましといふもなほおろかなり。 御文4帖(2)
2018/01/16

籾摺り

玄米黒赤緑1-16
をしました。2016年に収穫して残っていたものです。28kg(赤米13kg、黒米6kg、緑米9kg)ありました。前の籾摺り量が29kgでしたので、全部で57kgとなります。この年の一人あたりの消費量が56.0kgですので、白米に換算するとこれより少なくなりますが、まあ、ほぼ1年分の量となります。しかし、わたしは100kgくらい食べますので、これでは足りませんが、今のわたしの作れる限界です。
2018/01/15

セイタカアワダチソウ

セイタカユリカモメ1-15
についた露が凍っていました。拡大するとそれなりに面白い模様になります。昼間は暖かく感じました。ユリカモメはいつものところに群れています。
 文芸会館での練習がありました。朗読劇での練習のことが思い出されます。ホールでの練習はそれなりに気合いが入ります。
2018/01/14

真実の教え

大文字1-14
とは何でしょう。わたしの生まれた意義、生きる喜びを示すものであったとの感動を呼び起こすものなのでしょう。お釈迦さまと阿難との出遇い、世自在王仏と法蔵菩薩との出遇い、それぞれ世を超えた願いに生きる歩みの起こる時なのでしょうが、わたしは踏み出せないでもたもたしております。
 山は雪が積もっています。野菜の葉の水滴が凍っていました。
2018/01/13

仏旗

仏旗1-13
が掲げられています。報恩講が勤まっています。
 領解文のお話しがありました。この文のなかに安心、報謝、師徳、法度が説かれているとの話しでした。

 もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
 たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。
 この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。
 このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。
2018/01/12

寒さ

ユリカモメ1-12
が続きます。鴨川沿いを歩きました。ユリカモメが群れていました。日は長くなりなり始めたようですが、ヤナギは芽を閉じたままです。
2018/01/11

仏旗

西本願寺1-11
が寒空にはためいていました。今日はあちこち回りました。だけど何を聞いているのでしょう。

人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、 御文五帖16通 

この世界のならいは、老少不定にして、電光朝露のあだなる身なれば 御文四帖2通

人間はただ電光朝露の、ゆめまぼろしのあいだのたのしみぞかし。たといまた栄花栄耀にふけりて、おもうさまのことなりというとも、それはただ五十年乃至百年のうちのことなり。もしただいまも、無常のかぜきたりてさそいなば、いかなる病苦にあいてかむなしくなりなんや。まことに、死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も、財宝も、わが身にはひとつもあいそうことあるべからず 御文一 帖11通

「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。仏法の事は、いそげ、いそげ」 聞書103

「今日の日はあるまじきと思え」 聞書104

「仏法には、世間のひまを闕きてきくべし。世間のひまをあけて、法を聞くべきように思う事、あさましきことなり。仏法には、明日と云う事はあるまじき」  聞書155

ひとつことを聞きて、いつも、めずらしく、初めたる様に、信のうえには、有るべきなり。ただ珍しき事を聞き度く思うなり。一事を、幾度聴聞申すとも、めずらしく、はじめたるようにあるべきなり。 聞書130
2018/01/10

念仏もうさんと思い立つこころのおこるとき

西本願寺1-10
「それは自是他非でしか生きられないことの事実に、”悲しいね”と頭の下がる。そこに相手に近づく心が生まれる。」といった話しがありました。これを頭でこねくりまわしているわたしがいます。なかなか頭が下がる自分ではありません。
 今日から定例法話が始まりました。待ち望んでいたわたしがありましたが、何のために聞法しているのでしょうか。問われてみると、欲でしかありません。自己満足でしかなさそうです。報恩講のほうへも行きました。改悔批判の儀式が行われていました。
2018/01/09

聴聞

寺掲示親鸞1-9
に行きましたが、残念ながらやっていませんでした。変わりに”親鸞再考(佐々木正)”を読みました。前にも読んだような気がします。朗読で歎異抄第二条を読もうと思っているときに手にしました。一気に喋っていると思っていたのですが、ダイアローグとモノローグが入っているというのです。しかし、見直してみましたが、そこのところがよくわかりません。読み方を工夫する材料にはなるように思われます。
 補遺の前期・法然と後期・法然とによる善人往生・悪人正機、一念・多念の問題が面白いです。
 お寺には新たな掲示がありました。何故、法蔵菩薩が兆載永劫の修行をしなければならなかったかを知らしめられます。
2018/01/08

南禅寺梅1-8
が咲き始めていました。雨にもかかわらず何か暖かさを感じます。いよいよ今年も動き始めました。ここにもセンダンの実が着いています。