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2020/09/23

芋掘り

サツマイモ9-23
をしました。葉を切り取り、運ぶときに腰を痛めた感じです。とにかく掘り出しました。しかし、ちょっとしかありませんでした。葉っばのわりに少なすぎます。
 跡地にジャガイモの種下ろしをしようと考えていたのですが、無理することもないのでやめました。
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2020/09/22

更地

更地ヒガンバナ9-22
が目に入りました。何が建っていたのか思い出せません。グーグルの航空写真で見ると倉庫みたいなものが建っています。時々そこを通るのに全然見ていなかったのだと思わされます。
 白色のヒガンバナが咲いていました。赤色も近くにあったのですが、まだ見られません。
 聴聞してきました。かつて読んだ本の話しがありましたが、全然記憶がありません。

 平生の一念によりて往生の得否はさだまるものなり。平生のとき不定のおもいに住せば、かなうべからず。平生のとき善知識のことばのしたに、帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり、臨終とおもうべし。そもそも南無は帰命、帰命のこころは往生のためなれば、またこれ発願なり。この心あまねく万行万善をして、浄土の業因となせば、また回向の義あり。この能帰の心、所帰の仏智に相応するとき、かの仏の因位の万行・果地の万徳、ことごとくに名号のなかに摂在して、十方衆生の往生の行体となれば、「阿弥陀仏即是其行」(玄義分)と釈したまえり。また殺生罪をつくるとき、地獄の定業をむすぶも、臨終にかさねてつくらざれども、平生の業にひかれて地獄にかならずおつべし。念仏もまたかくのごとし。本願を信じ、名号をとなうれば、その時分にあたりて、かならず往生はさだまるなり、としるべし。 (執持鈔)
2020/09/21

秋晴れ

ヒガンバナ東本願9-21
のカラッとした天気でした。朝夕は涼しくなりました。聴聞に行きましたが、居眠りしている時間が多いです。お彼岸ということでしょうか、打敷が掛けられていました。
2020/09/20

サツマイモ

菜園ヒガンバナ9-20
の葉が旺盛に拡がっています。そろそろ収穫できるのでしょうか。ウコンの花がまだ咲いています。ヒガンバナも咲いています。
 「すでに本願の働きの中に生かされていた」といった話しがありました。
2020/09/19

街中の田んぼ

田ヒガンバナ9-19
はスズメなどの被害が多いのでしょうか、ネットが張られていました。シカやイノシシの害は無いのでしょうが、人の害が加わります。それなりに大変ですね。
 ヒガンバナが一輪咲いていました。まだ芽も出ていないところもあります。何かばらばらです。天候のせいでしょうか。
 何故念仏なのか。多くの人を悩ませてきました。わからないことだらけです。

親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。 ・・・・・・ 弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。 (歎異抄)
2020/09/18

生死無常のことわり

サボテン花9-18
の話しを聞いてきました。真宗の救いとは何でしょう。煩悩の満足ではないことは確かです。死を受け入れられるのかが問われているように思われます。
 サボテンの花が咲いていました。形は月下美人の花にそっくりです。
 国勢調査をネットで回答しておきました。

(六)なによりも、こぞことし、老少男女おおくのひとびとのしにあいて候うらんことこそ、あわれにそうらえ。ただし、生死無常のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう。まず、善信が身には、臨終の善悪をばもうさず、信心決定のひとは、うたがいなければ、正定聚に住することにて候うなり。さればこそ、愚痴無智のひともおわりもめでたく候え。如来の御はからいにて往生するよし、ひとびともうされ候いける、すこしもたがわず候うなり。としごろ、おのおのにもうし候いしこと、たがわずこそ候え。かまえて、学生沙汰せさせたまい候わで、往生をとげさせたまい候うべし。故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、たしかにうけたまわり候いしうえに、ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、往生必定すべしとてえませたまいしをみまいらせ候いき。ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、往生はいかがあらんずらんと、たしかにうけたまわりき。いまにいたるまでおもいあわせられ候うなり。ひとびとにすかされさせたまわで、御信心たじろかせたまわずして、おのおの御往生候うべきなり。ただし、ひとにすかされたまい候わずとも、信心のさだまらぬひとは、正定聚に住したまわずして、うかれたまいたるひとなり。乗信房にかようにもうしそうろうようを、ひとびとにももうされ候うべし。あなかしこ、あなかしこ。
 文応元年十一月十三日  善信八十八歳 (末燈鈔)
2020/09/17

「なにも足さない、なにも引かない」

ヒガンバナ9-17
そのまんまの救いといった話しがありました。「なにも足さない、なにも引かない」は1995年ごろのサントリー山崎のCM だそうです。こんな高級なもの飲んだこと無いので、全然知りませんでした。サントリーレッドを赤ラベルなんて言って、飲んでいたのは何時のことでしょう。
 ヒガンバナが蕾を出していました。今年は外に出るところが限られているせいか、季節感がずれてきているようです。
 
「信心のかわると申すは、自力の信にとりての事なり。すなわち、智恵各別なるがゆえに、信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず。信心のかわりおうておわしまさん人々は、わがまいらん浄土へはよもまいらせたまわじ。よくよくこころえらるべき事なり」(御伝鈔)
2020/09/16

大阪

大阪城9-16
に行くのは気が重いのですが、先月は休んだのでやむを得ません。今回は通勤時間帯を外して貰いました。毎日通勤している人はどんな思いなのでしょうか。
 大阪城ホールは閉まっており、水上バスは運休しており、人影もまばらです。また、いつの間にか景色の変わっているところもあります。
2020/09/15

キノコ

キノコ9-15
が黒くなっていました。今日はナンバーカードの申請のために区役所に行きました。1時間かかりましたが、手続きだけです。カードが手にはいるのに2ヶ月くらいかかるとのことです。なかなか大変です。
 覚信尼の疑いを解くのに、何故夢の話しが出てくるのかわからなかったのですが、廣瀬惺の「”往生”について」の講演を読んで、少しもやもやが解けた感じです。

かく御心得候うべし。されば、御臨終はいかにもわたらせ給え、疑い思いまいらせぬうえ、(恵信尼消息3)

前念命終、後念即生 (善導大師)

本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は、後念即生なり (愚禿鈔)

信に死し、願に生きよ (曽我量深)
信ずるは前念命終である。念仏申さんとおもいたつ心は後念即生である。・・・自力の生活は終る。それから他力の生活がそこから開けてくる。(曾我量深)

本願をいただき続けていく歩みが往生という生活 (廣瀬惺)

信心まことにならせたまいてそうろうひとは、誓願の利益にてそうろううえに、摂取してすてずとそうらえば、来迎臨終を期せさせたまうべからずとこそおぼえそうらえ。いまだ信心さだまらざらんひとは、臨終をも期し来迎をもまたせたまうべし。(末燈鈔)

 『選択本願念仏集』源空集に云わく、南無阿弥陀仏往生の業は念仏を本とす、と。
 また云わく、それ速やかに生死を離れんと欲わば、・・・・・選びて正定を専らすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏の名を称するなり。称名は必ず生まるることを得、仏の本願に依るがゆえに、と。(教行信証・行)
2020/09/14

ヒガンバナ

ヒガンバナ9-14
咲いていました。色がいつも見るものとは違いピンクがかっています。新種でしょうか。紅葉し始めている樹木がありました。急に涼しくなったような気がします。
 久しぶりに雑談してきました。
2020/09/13

キノコ

キノコ木幡9-13
が成長していました。何か毒々しいです。これでは食べられないでしょうね。ハスの実がなっています。花は見当たりません。
 聴聞してきました。「獅子身中の虫」の話しがありました。

 決定の信心をもて一念してのちは、また念ぜすといふとも、十悪五逆なほさわりをなさず、いはむや余の少罪おやと信ずべきなりといふ。このおもひに住せむものは、たとひおほく念ずといはむ、阿弥陀仏の御こころにかなはむや。いつれの経論・人師の説ぞや。これひとへに懈怠・無道心・不当不善のたぐひの、ほしいままに悪をつくらむとおもひて、また念ぜずば、その悪かの勝因をさえて、むしろ三途におちざらむや。かの一生造悪のものの、臨終に十念して往生するは、これ懺悔念仏のちからなり。この悪の義には混ずべからず。かれは懺悔の人なり、これは邪見の人なり。なほ不可説不可説の事也。
もし精進のものありといふとも、この義をきかば、すなわち懈怠になりなむ。まれに戒をたもつ人ありといふとも、この説を信ぜは、すなわち無慚なり。おほよそかくのごときの人は、附仏法の外道なり、師子のみの中の虫なり。またうたがふらくは、天魔・波旬のために、精進の気をうばわるるともがらの、もろもろの往生の人をさまたげむとするなり。 (法然上人 越中国光明房へつかはす御返事)

 仏法をばやぶるひとなし。仏法者のやぶるにたとえたるには、「師子の身中の虫の師子をくらうがごとし」とそうらえば、念仏者をば仏法者のやぶりさまたげそうろうなり。 (親鸞聖人御消息集(広本)(一〇の追伸))

 宗教にとって、最大の敵は、必ずしも背信者や異教徒ではなく、誰よりも深く信じていると自認している信徒自身です。この危険について思慮しなければなりませぬ。(亀井勝一郎)


2020/09/11

マスク

マスク9-11
の落ちているのを見かけます。潤沢に出回るようになると、こんな扱いになるのでしょうね。大騒ぎしていたのが嘘のようです。確かに当たり前の世界は身勝手なものです。
 キノコが生えていました。目も付いています。
2020/09/10

夕立

木幡雨雲9-10
に襲われてしまいました。傘なんて役に立ちません。軽く考えていました。近くに雨宿りするところもありません。結局びしょ濡れです。
 聴聞してきました。当たり前というのは自分にとっての当たり前であり、自分の都合により変わっていくという話しにドキッとさせられます。 ”愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。(愚禿鈔)” 何か言い当てられていますね。
2020/09/09

バケツ稲

バケツ稲9-9
の穂が出てきましたが、未熟の稲に早々と鳥が襲っている感じです。穂の折れ具合から見ると、カラスといった大型の鳥のようです。このままでは稔る前に無くなりそうですので、ネットを掛けました。こんなことしたのは初めてです。
 聴聞してきました。居眠りタイムになっているとはいえ、行くところがあるのはいいものです。”南無阿弥陀仏”が救いであることに多くの人が証明してきた歴史でしょうか。
2020/09/08

キョウイク

菜園サツマイモ9-8
の無いのは退屈です。家にいると、これといってすることもなく、結局テレビ漬けです。夕方涼しくなったので、イモの手入れをしました。手入れといっても、ツルを上に上げるだけです。蚊の大群に襲われました。こんなにも蚊が潜んでいるのですね。
2020/09/07

二河白道

愛宕山9-7
の話しがありました。もうひとつ話しの筋がわかりませんでした。”ただ”が気になりました。”ただ念仏して”に通じているのでしょうか。
 ハギの花が咲いていました。ツクツクボウシも鳴いていて、秋の気配を感じます。しかし、それにしても暑いです。コロナも加わってイライラがつのります。

「仁者ただ決定してこの道を尋ねて行け、必ず死の難なけん。もし住まらばすなわち死せん」 (教行信証・信)
2020/09/06

念仏が救い

睡蓮東本願9-6
 朝から聴聞してきました。行くところがあるのは、気が安まります。
 人間は自分自身を根本的に疑うことは出来ないとか、自分が正しいというところを一歩もでないといった話しに納得です。マールンキャープッタの問の話しもありましたが、理解できないところはとばしています。所詮は今の自分の考えに従っているだけです。

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり 法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり (浄土和讃)
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とときたれど 塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまう (浄土和讃)
2020/09/05

花は?

ハス東本願フウ木幡9-5
散っていました。暑い中、寄り道して見に来ていましたが、もう来ることも無さそうです。晴天が続き、フウの葉は枯れ始めていますが、クスノキの葉は青々しているように見えます。それにしても暑い日が続きます。そんな中聴聞してきました。涼しさを求め居眠りしているだけにもみえます。 わたしに南無阿弥陀仏が届いている。
2020/09/04

ハスの花

ハス東本願9-4
は朝は開いていたのでしょうが、昼間はこんな状態でした。これが見納めとなるのでしょうか。
 今日は居眠りタイムでした。
2020/09/03

後鳥羽上皇

ハス東西本願9-3
の話しがありました。今日は別のところに行きました。勤行は無く、ちょっと拍子抜けでした。こちらのハスは鉢に植えられていますが、花の時期は終わっていました。

 世こぞって蜉蝣の如し。朝に死し、夕べに死して別れるものの幾許ぞや。或いは、昨日已に埋みて、墓の下の者に槽涙す。 或いは今夜に送らんと欲して、棺の前に別れを泣く人もあり。およそはかなきものは人の始中終、幻の如くなる一朝の過ぐる程なり。 三界無常なり。古よりいまだ萬歳の人身あることいふことを聞かず、 一生過ぎやすし。今に在りて誰か百年の形體を保たん。 實に、我はさき人やさき、今日も知らず明日とも知らず。おくれ先だつ人、本の滴、末の露よりも繁し。・・・・ (無常講式)
2020/09/02

ほとおりけ

鴨川東本願ハス9-2
 ”ほとけ”の由来について、親鸞聖人が解釈している和讃の話しがありました。
 ちょっと用事があり、約半年ぶりに鴨川べりを歩きました。
 ハスの花もこの二本で終わりになるのでしょうか。

1善光寺の如来の われらをあわれみましまして なにわのうらにきたります 御名をもしらぬ守屋にて
2そのときほとおりけともうしける 疫癘あるいはこのゆえと 守屋がたぐいはみなともに ほとおりけとぞもうしける
3やすくすすめんためにとて ほとけと守屋がもうすゆえ ときの外道みなともに 如来をほとけとさだめたり
4この世の仏法のひとはみな 守屋がことばをもととして ほとけともうすをたのみにて 僧ぞ法師はいやしめり
5弓削の守屋の大連 邪見きわまりなきゆえに よろずのものをすすめんと やすくほとけともうしけり (正像末和讃)
2020/08/31

見納め

ハス東本願b8-31
になるのかとも思われましたが、蕾がありました。ここでハスの花を見てきました。感謝です。
 題号、標宗、総結と並べられても、題号はわかるにしても、それ以外はよくわかりません。末燈鈔の言葉からぼんやりとは感じますが、きっちり書くとこのようになるのでしょうか。今日も聴聞してきましたが、冷房の効いた部屋にはいると、居眠りが始まります。よくこれだけのことを書き取ったものです。中味はさっぱりですが・・・。

題号 選擇本願念佛集
標宗 南無阿彌陀佛 往生の業は念佛を本と爲す
総結 また云わく、それ速やかに生死を離れんと欲わば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣きて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲わば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、選びて正定を専らすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏の名を称するなり。称名は必ず生まるることを得、仏の本願に依るがゆえに、と。

題号 大無量寿経
標宗 真実之教
総結 浄土真宗

浄土宗のなかに、真あり仮あり。真というは、選択本願なり。仮というは、定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり。定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。方便仮門のなかにまた大小権実の教あり。(末燈鈔)
2020/08/30

仏法にあう

ハス東本願8-30
とは、「自分勝手なひどい心で生きていたなあ、えらい根性で生きていたなあと、目が覚めるということです。」といった話しがありました。これは知識ではないので覚えたからと言ってどうなるものでもありません。
 コロナによって日々自分の心を見せつけられます。こんな時こそ仏法に聞いていかなければならないのでしょう。
 ハスの花もそろそろ終わりに近づいてきたようです。それにしても暑い!! コロナ以上に熱中症のほうに気をつける必要がありそうです。といっても、密閉した空間に行くのも怖いし、結局家でゴロゴロといったところでしょうか。
2020/08/29

田の草取り

丹波出穂8-29
に行きました。もう稲刈りの終わった田んぼもありました。
 草刈り器で畦の草刈りをしましたが、暑く、草刈り器も重く感じ、からだが動きません。ほとんど木陰で休んでいました。せっかく来たのだから何もしないのも癪なので黒豆周りの草取りをしましたが、ちょっとやっただけで終わりました。
 赤米、香り米の出穂が始まりました。今年も草取りが中途半端で終わりそうです。
2020/08/29

安倍政権はコロナ災害を奇貨として、国民の基本的人権を制限してくる可能性があります。

「田中龍作ジャーナル」にあった言葉です。嘘で固めた政権が何年続いているのでしょうか。このサイトは嘘は無いでしょう。
田中龍作ジャーナル
http://tanakaryusaku.jp/2019/11/00021172
安倍首相の緊急事態宣言 日本が武漢になる日
 何時までこの記事をトップにあげておかなければならないのでしょう。(2020-8-1)
嘘と欺瞞に塗り固められた首相が退陣する。(2020-8-28)
2020/08/28

命根を奪う

ハス東本願8-28
といった話しがありました。現世利益信仰など自分の思いに生きるならば、それは命の根っこを奪われて生きていることになるといったことのようです。しかし、人間は縁次第で何をやらかすかわからない存在なのです。
 ハスの花の移り変わりも早いものです。安倍首相もやっと辞意を固めたようです。

「魔は煩悩に依って菩提を妨ぐるなり。鬼は悪病を起こす、命根を奪う。」(教行信証・化身土)

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄 第十三条)
2020/08/27

依修多羅顕真実

ハス東本願8-27
の話しを聞いてきました。”人間が一番困るのは、自分が自分を引き受けられないこと”といった話しもありました。
 声を出していないので、ちょっと声を張り上げて読むと、咳き込んできます。
2020/08/26

聴聞

ハス東本願8-26
してきました。話しが盛り沢山で、いろいろな言葉が駆け巡ります。山本周五郎の”死は消滅ではなく完成だ”とか、ティック・ナット・ハンの”在ること、行動すること”、芹沢俊介の”ある自己、する自己”に反応していました。
 ハスの花が毎回気になります。暑い中、撮ってきました。

山本周五郎 虚空遍歴 
「死ぬことはこの世から消えてなくなることではなく、その人間が生きていた、という事実を証明するものなのだ。死は、人間の一生にしめ括りをつけ、その生涯を完成させるものだ。消滅ではなく完成だ。」
「人間の一生で、死ぬときほど美しく荘厳なものはない。それはたぶん、その人間が完成する瞬間だからであろう。生きているうちは醜いことが多い、狡猾や裏切や、貪欲や策謀。いいことをする裏には、数知れない悪徳が積み重なって、腐ったごみ溜のような匂いを放っている。生きている限りその匂いは付いてまわるが、死ぬ瞬間にそれらは停止する。そこにはもう不安定なものはなにもない、それぞれの善悪、美醜をひっくるめた一個の人間として完成するのだ。・・・ちょうど土をこね、ろくろにかけ、うわぐすりを塗り、かまで焼きあげて、一つの壷が出来あがるように」

相田みつを
「そんかとくか 人間のものさし うそかまことか 佛さまのものさし」
「にんげんはねぇ 人から点数をつけられるために この世に生まれてきたのではないんだよ にんげんがさき 点数があと」

ティック・ナット・ハン 『抱擁』
「私たちは、在ることより、行動することが重要だと考える傾向があります。
私たちは、何かをしていないと時間の無駄遣いをしていると思っています。
それは間違った考えです。
何よりも私たちの時間は、ただ在ることのためにあります。
何のために私たちの時間は存在するのでしょうか。
生きるため、平和のため、喜びのため、愛のため。
これらは、私たちの世界が最も、そして切実に必要としているものなのです。」

芹沢俊介 
「”ある自己being”とは、存在するそのままの自己。”する自己doing”とは、自己のうち、仕事を含めて何かを「する」部分のこと。」
 「年をとって、社会から無用になっていけばいくほど、社会的自己から遠ざかるわけですから、その人の存在理由というものがなくなってしまう。でも、年をとったって、何かができなくなったって、そこにその人がいるだけで、大きな価値があり、意味があるんだという視点をどうも作れそうな気がする。そのために、社会的自己だけで自己が成り立っているのではなくて、同時に存在論的自己という、この二重性で、自己というのが成り立っているんだ。そう考えるならば、社会的自己が喪失しても、もう一つの存在論的自己、こちらの方が根底的なあり方ですから、これがしっかりとあるということによって、我々はその存在を、一個のかけがえのない人間のあり方として認めていくことが可能になるのではないか。」(https://futoko-net.org/wp/wp-content/uploads/2019/07/hikikomori.pdf

善導 
「経」といふは経なり。経よく緯を持ちて匹丈を成ずることを得て、その丈用あり。(観経疏)
2020/08/24

五障三従

ハス東蚕社8-24
についての話しがありました。御文にはよく出てくるようですが、その用い方は差別を助長するものでないことのようです。
 御文についての本の紹介があり(『御ふみ』蓮如著 出雲路修校注 東洋文庫)、何か因縁を感じ、図書館を調べましたがありません。ネットで調べたら安かったので注文してしまいました。

「ただわが身は十悪・五逆・五障・三従のあさましきものぞとおもいて」(御文・一)
「それ、女人の身は、五障・三従とて、おとこにまさりてかかるふかきつみのあるなり。」(御文・五)

五障三従
仏教が展開するなかで現れた、女性観を示す語。五障は女性の資質や能力上、女性には達成できないと主張される五つの事柄のことで、梵天王・帝釈・魔王・転輪聖王・仏にはなれないことを指し、・・・三従は、『超日明三昧経』下に「少くは父母に制せらる。出でて嫁ぐは夫に制せらる。自由を得ず。長大なるは子に難ぜらる」と論じるように、女性の生涯を年少・結婚後・年を重ねた後の三期に区分した上で、女性は生涯にわたり家族内にあって従属的であるとすることを指す。これらの女性観は、バラモン教に基づく『マヌ法典』の所説にみられる、人間は生まれつき女性より男性のほうが資質や能力に優れ、女性は男性に従属するものという古代インドの人間観や当時のインド社会の実情が影響したものと考えられる。その一方で釈尊は女性の出家を認め、さらには仏教が目指す境地の達成は「生まれ」によって左右されるものではなく「行為」によることを説いている。(WEB版新纂浄土宗大辞典)
2020/08/23

人生

ハス東本願a8-23
とは何でしょう。わたしは人生から何を期待されているのでしょう。いろいろ考えさせられる話しではありました。
 朝寝坊してしまいました。田んぼの草取りは止めにしました。熱中症になるから止めよのサインだったのかもしれません。ハスの花が咲いていました。近くで見るのは楽しいです。
2020/08/22

高齢者はモルモットか?

ハス東本願8-22
 ”政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会は21日、ワクチンの供給が始まった場合、重症化リスクの高い高齢者や基礎疾患のある人、医療従事者を優先的に接種させるべきだという提言をまとめた。”という記事が目に留まりました。このワクチンはどの段階のものでしょう。安全性の確認されたものとすれば、何時になるのでしょう。発表が何か拙速すぎます。
 今日も暑い日でした。夕方に雨が降り、一息ついた感じです。
 聴聞してきました。”悪と憍慢と蔽と懈怠のものは、もってこの法を信ずること難し”(悪とは仏智疑惑、蔽とは邪見)とか、”妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり”といった言葉に驚かされます。

『無量清浄平等覚経』に言わく、速疾に超えて、すなわち安楽国の世界に到るべし。無量光明土に至りて、無数の仏を供養す、と。 (教行信証・真仏土)

速やかに疾く超えて、すなわち、 安楽国の世界に到るべし。
無量光明土に至りて、 無数の仏を供養せん。
この功徳あるにあらざる人は、 この経の名を聞くことを得ず。
ただ清浄に戒を有てる者、 いまし還りてこの正法を聞く。
悪と憍慢と蔽と懈怠のものは、 もってこの法を信ずること難し。(教行信証・行)

 また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて念仏すれば、来迎にあずかりて蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがい有るべからず。妄念をいとわずして、信心のあさきをなげきて、こころざしを深くして常に名号を唱うべし。 (念仏法語(横川法語))

 まず、当流の安心のおもむきは、あながちに、わがこころのわろきをも、また、妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよというにもあらず。ただあきないをもし、奉公をもせよ、猟、すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどいぬるわれらごときのいたずらものを、たすけんとちかいまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもうこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあずかるものなり。(御文・一)
2020/08/21

今日も

ハス東本願8-21
暑い日でした。行くところがある限り出掛けるようにしています。何をしているのだろうと思うこともあります。
2020/08/20

私とは

ハス東本願木幡池8-20
といった話しがありました。
  自分を成り立たせているのは 過去のあらゆる人々であり、出来事である
  私が生きていて、まわりに人々がいるのではなく
  まわりにいる人々によって、今の私がある
2020/08/19

挫折

ハス東本願8-19
とは何でしょう。”わたしの思いが間に合わなくなったこと”といった話しがありました。また、歳を取ると悔いしか残らないとか、悔いを通して人と出会うという話しもありました。なかなか考えさせられます。
 今日も暑い日でした。コロナも怖いし、病院に行くのを止め、薬だけ送ってもらうことにしました。
2020/08/17

マスク

ハス東本願8-17
をしての勤行は息継ぎが難しいですが、声を出せるだけで楽しいです。
 ”不楽本居”の話しがありました。生活していく上で何も困ることもなく、全てが満たされてしまうと、今度は何もすることがなくなり、自分の今あるところが楽しめなくなるといったことのようです。
 生きている意味とは何でしょうか。「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」、「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」と常に問われている問題です。
 今日も暑い日でした。
2020/08/16

バケツ稲

バケツ稲8-16
の一部が出穂していました。コシヒカリかトヨサトと思われます。田んぼでの状態と違うにしろ、傾向をつかむことは出来ます。
 聴聞してきました。心の四つの窓の話しがありました。心理学的にはジョハリの窓といい、4つの側面から自分の姿を見るもののようです。
 開放の窓(自分も他人も知っている) 秘密の窓(自分は知っているが他人は知らない) 盲点の窓(自分は知らないが他人は知っている) 未知の窓(自分も他人も知らない)の四つの窓です。そして開放の窓を広げ、未知の窓を狭めるように行動することで自己開発につなげるもののようです。仏教でみれば未知の窓は人間の思いを超えており、これを狭めることは人間には出来ないことなのでしょう。
 内省の世界の話しもありましたが、図の意味もよくわかりませんでした。内省とは何かと言うこともありますが、今まで聞いてきたことを考えると、人間は反省(後悔)はするが、懺悔は出来ないと言うことにつきるのでしょうか。自己中心であることが極重悪人と言われるのですから。
2020/08/15

クワイの花

クワイ黒豆8-15
が咲いていました。わたしの田ではクワイを見ることはありません。黒豆の花が今が盛りと咲いています。草に覆われ始めていますので、草を取らないといけないのですが、手が回りません。手を掛ければそれなりの収穫を得られるのを実感します。しかし、わたしは植えるだけはしますが、あとはその植物の力にまかせることが大半です。即ちほったらかしなのです。ちょっと虫がよすぎます。情熱が薄らいできています。
2020/08/14

母の遺言

木幡ハス東8-14
の話しがありました。藤川幸之助の詩でした。最後の”この私自身が母の遺言”というのが心に残りました。
 家にいると、くだらないテレビにいらいらさせられます。外に出ると暑いし、電車に乗るとコロナが心配にはなりますが、家にいるよりはましです。

母の遺言       藤川幸之助

二十四年間母に付き合ってきたんだもの
最期ぐらいはと祈るように思っていたが
結局母の死に目には会えなかった
ドラマのように突然話しかけてくるとか
私を見つめて涙を流すとか
夢に現れるとかもなく
駆けつけると母は死んでいた

残ったものは母の亡骸一体
パジャマ三着
余った紙おむつ
歯ブラシとコップなど袋二袋分
もちろん何の遺言も
感謝の言葉もどこにもなかった

最期だけは立ち会えなかったけれど
老いていく母の姿も
母の死へ向かう姿も
死へ抗う母の姿も
必死に生きようとする母も
それを通した自分の姿も
全てつぶさに見つめて
母を私に刻んできた

死とはなくなってしまうことではない
死とはひとつになること
母の亡骸は母のものだが
母の死は残された私のものだ
母を刻んだ私をどう生きていくか
それが命を繋ぐということ
この私自身が母の遺言
   『命が命を生かす瞬間(とき)』(東本願寺出版)より
2020/08/13

不自由の自由

ハス東本願8-13
といった話しがありました。何か久しぶりに来た感じです。家でごろごろしているより、出掛けた方が気分転換になります。何が不用不急なのかもわからず、それにとらわれることもないでしょう。コロナで不自由に感じる生活を過ごすヒントともなる話しでした。
 コロナで自分の思い通りにならない、その不自由を引き受けることで、自然そのものを味方に、かえって広大な自由を得られるといったものでした。
 ハスはまだ咲いていました。朝の綺麗に咲いている状態を撮りたいものです。