2017/09/25

彼岸花

彼岸花9-24
が咲き揃っています。が、枯れゆく姿は何か恨めしそうです。
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2017/09/23

久しぶりに

彼岸花9-23
聴聞してきました。彼岸花がまだ咲いていました。今日は彼岸の中日でした。
2017/09/22

この周辺

京都帰9-22
を歩くのは、かつては怖いところと教えられていました。興味はありましたが、一人では歩くことは無かったです。さて、今はどうでしょう。
 昔懐かしい建物がありました。改修はされているのでしょうが、かつてはこのような家ばかりでした。今はほとんど見られません。ビル群になっています。何かホッとします。
 帰りの飛行機は窓側でした。空と海、空と雲の対比が面白いです。
2017/09/21

ナナカマド

江別札幌9-21
の実が着いていました。赤とんぼも飛んでいて秋を感じさせます。
 かつての懐かしい建物が取り壊されて何年経つのでしょうか。何時まで空き地のまま晒されるのでしょうか。
 街中が禁煙地区になるなか、喫煙スペースが設けられています。煙は大気中に流れます。喫煙の何が問題なのでしょうか。嫌がらせにしか見えません。
 こんなところに市電が走っていました。これなら駐車する車もなくすっきりします。店屋によっては困ることもありそうですが・・・。今回は時間がなかったので乗りませんでしたが、一度ボケッとして一周してみたいです。
2017/09/20

まなびや

学舎9-20
を歩いてきました。半世紀も前になるのです。一見変わらない姿に昔を思い出します。と同時にこんなに素晴らしい食堂も出来ていることに感動です。
2017/09/19

モノレール

札幌行9-19
に乗せさせるためでしょうか。歩いていく者に対して不親切さが目立ちます。せめて道順の掲示だけでも、わかりやすいところに立てて欲しいものです。空港は目の前に見えているのに道がわかりません。うろうろして、やっと人を見つけ聞いて辿り着くことが出来ました。モノレール一駅分の交通費を節約するのも大変です。
 まずはラーメンです。それにしてもニンニクが置いてありません。いちいち言わなければなりません。他の店でもそうでした。いまどきはニンニクは流行らないのでしょうか。
2017/09/17

彼岸花

彼岸花9-17
が咲いていました。部屋に飾るのでしょうか、一部摘み取られています。時代とともにかわるのですね。
 台風が近づいていると聞きましても、まだ遠いとあまり気になりません。聞法してきました。といっても、研究発表会ということで普段の話しと違いついていけません。研究会とはこんなものだなと思うところもあります。自己満足的なところもありますからね。
2017/09/16

公開講座

京女大9-16
を覗いてきました。歌詞の中にいろいろ考えさせる内容があるものです。歌を聞いても、メロディーは気になりますが歌詞までは気にしていません。
 そういえば、谷川俊太郎作詞の”じゃあね”という歌があります。 ”じゃあね”と呼びかけている相手は近くにいるのか遠くにいるのか、若いのか歳取っているのか、生きているのか死んでいるのかいろいろと想像させられます。
 この歌とは関係ないと思われますが、 ”じゃあね”という言葉について面白い記述がありました。それを記しておきます。
 「人と別れるときに”じゃあね”ということがあります。言葉の意味はわからないですわね。”じゃあね”とは何ですかと尋ねられたら、言ったほうも困ります。だけど響く。そういうことが大事なのです。”じゃあね”が響くと、他の言葉を必要としなくなります。響いたものが、”じゃあね”と呼びかけてきた心にふれるのです。あの人と別れたときに、”じゃあね”と言って別れていった。その人はもうこの世を去っていった。そうすると、あの”じゃあね”という一言が、自分の生活の中で内容を持ってくるのです。それが聞思ということです。そういうかたちでその人に出遇うということがある。」 (宗正元 念仏者として独立せん 東本願寺出版部 384-385頁)
2017/09/14

バケツ稲

バケツ稲彼岸花9-14
の出穂が盛んですが、実が白くなっています。虫に食べられたのでしょうか。密過ぎるのが影響しているのでしょう。彼岸花が開花していました。
 今日は観経の話しでした。
 「父の王、今になお存在せりや」
 「我が母はこれ賊なり」
 「汝、我がためにせざらんや」
 「大王、慎みて母を害することなかれ」
2017/09/13

ウォーターパーク

大阪城9-13
も取り壊されています。一方で読売テレビの新社屋の工事が進んでいるようです。彼岸花が咲き始め、夏も終わったはずなのですが、日中はまだ暑いです。
 今日は歎異抄の話しがありました。
 一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。歎異抄第5章
30世代さかのぼれば、私は10億の人々の存在によって生まれてきているのであり、今は他人としか思えない人たちについても、かつて同じ人を親としていると言わざるを得ません。そう聞きますと、ちょっと驚いてしまいます。
2017/09/12

イチョウ

天空農園9-12
の上部が色づいています。蒸し暑いと言っても、季節は巡っていきます。ところで、強迫観念に襲われているのでしょうか、雨にもかかわらず天空の農園に行ってきました。十日前の景色とほとんど変わりません。時間があれば来て写真に納めないと気持ちが落ち着きません。心とはどういうものなんでしょうか。
 ”後生無量寿仏国 快楽無極”(仏説無量寿経巻下)という言葉を知りました。ここから”後生の一大事”という言葉が生まれたようです。そして、後生とは往生浄土の意味にもなるようです。
 無記  ”修行完成者(如来)は死後存在するのか”についての話しと聞きました。一般の人について、お釈迦さまは死後の世界について語っているようです。
 親鸞聖人は”業識”が死後も引き継がれていくとみているようです。信心の業識であれば光明土に到るし、そうでなければ流転していく。
 新しい知識が入って得意になっている自分がいます。決して仏法を喜んでいるわけではありません。何ということでしょうね。


即得往生 住不退転
「即得往生」は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、これを「即得往生」とは申すなり。「即」はすなはちといふ、すなはちといふはときをへず日をへだてぬをいふなり。(唯信鈔文意)

「本願を信受するは前念命終なり。即得往生は後念即生なり」 愚禿鈔(善導の『往生礼讃』の言葉)
信心獲得の時「往生がさだまり」(即得往生)、「臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す」いわゆる「往生を遂げる」と理解したい。 (念佛寺住職思索)

「すでに身を受けんと欲するに、みづからの業識をもつて内因となし、父母の精血をもつて外縁となして、因縁和合するがゆゑにこの身あり。」 (観経疏 散善顕行縁)
「信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。」(真宗聖典190頁)
2017/09/11

ハスの花

ハスの花9-11
をしつこく撮ってきました。今回で見納めになるかも知れません。
”自分のことがわかるということが救い”と言われましてもねぇと、受け取れないわたしがいます。
2017/09/10

教える人

の話しは面白くありません。聞く私もそんなこと知っていると、聞く態度ではありません。勝他を競っている感じです。
 自分の欲求に従って自分を満たす生き方に痛ましさを感じ、心の底から突き上げてくる真実に生きたいという声を聞く、といった話しがありました。阿弥陀仏のはたらきの上にわたしは存在していると認識できるかが問題となりそうです。
2017/09/09

暑さ

ハス東本願9-9
が戻ってきました。それはそれとして聴聞してきました。いろいろ聞きましたが、未消化のままです。ハスの花がまだ咲いていました。

阿弥陀仏と申すは、いかやうなるほとけぞ、またいかやうなる機の衆生をすくひたまふぞといふに、三世の諸仏にすてられたるあさましきわれら凡夫女人を、われひとりすくはんといふ大願をおこしたまひて、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、それ衆生の罪においては、いかなる十悪・五逆、謗法・闡提の輩なりといふとも、すくはんと誓ひましまして、すでに諸仏の悲願にこえすぐれたまひて、その願成就して阿弥陀如来とはならせたまへるを、すなはち阿弥陀仏とは申すなり。 (御文三帖一通)

深行大悲者。愍念衆生徹入骨体故名為深。
深く大悲を行ずれば、衆生を愍念すること骨体に徹入するがゆえに、名づけて”深”とす。真宗聖典 164-165頁 (十住毘婆沙論・浄地品)

如来 我となりて、我を救いたもう。(曽我量深)

聖道門のひとはみな 自力の心をむねとして 他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり (正像末和讃)

唯除五逆、誹謗正法
誹謗正法の罪極重なるをもつてのゆえなり。また正法はすなわちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず。いずくんぞ仏土に願生するの理あらんや。たといただかの安楽に生まるることを貪して生を願ぜんは、また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし、あに得る理あらんや。
 問うて曰はく、何等の相かこれ誹謗正法なるや。答えて曰わく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法と言わん、かくのごときらの見をもつて、もしは心に自ら解(さと)り、もしは他に従いて、その心を受けて決定するを、みな”誹謗正法”と名づく、と。 真宗聖典 273頁
2017/09/08

鴨川沿い

鴨川9-8
を久しぶりに歩きました。風が爽やかです。如来に摂取されるとはこういうことでしょうか。ススキの穂が出始めています。ちょっと前までの暑さが嘘のようです。
2017/09/07

東本願寺撞鐘

東本願寺9-7
が境内に安置してあります。右向鳳凰の下部に慶長九甲辰暦とあり、1604年に鋳造されたものです。歴史を感じさせられます。聴聞してきました。といってもほとんど眠っていて、どんな話しだったのでしょう。わたしは何をしているのでしょう。涼みに来ているだけなのかもしれません。
寺掲示9-7
 お寺に新しい掲示がありました。直接的です。
2017/09/06

彼岸花

彼岸花9-6
(林有加 日本短波放送)という童話を知りました。著者が息子への思いを綴ったもののようです。この作品も聴聞しなければ知り得ませんでした。
「 彼岸花は、母の言葉と、いく粒もの涙を花びらで受けとめ、ひとすじの光となり、空に昇っていきました。
 母は、空を見上げ、いつまでも祈りつづけました。 」
今年はまだ彼岸花を見ていませんが、見たときにはいつもとは違った思いが湧いてきそうです。
 ところで聴聞していて、身贔屓が激しいと何かしら反発を感じてしまいます。話す内容はいつもと同じです。原文を読んでみました。何か話しがすり替えられている感じがします。如来は当然知っているし、その如来を智慧海と言い換えただけではないのかと、人間は無明であることに変わりないわけです。
2017/09/04

ハスの花

ハスの花9-4
が咲いていました。通るたびに覗いていますが、けっこう遅くまで咲いているものです。 今日も聴聞してきました。興味のある話しは楽しいものですと、自分の価値観が中心となっています。仏法に遇わなければ、私のものさしでの判断でしかありません。仏のものさしを聞いたとしても、私は知識を喜んでいるだけで、頭が下がりません。なかなかしぶといです。
2017/09/02

天空の農園

天空農園9-2
をぶらついてきました。土曜日ということもあるのでしょうか、結構賑わっていました。稲が実っています。もうじき刈り取りと思われるのですが、未だ水が張ってありました。ナタマメはさすが大きいです。キクイモはこんなにも大きくなるのですね。それに比べ小豆はといいますと、少し小さいのではと思われます。いろいろな野菜を見るのも楽しいです。
2017/09/01

バケツ稲

出穂9-1
がやっと出穂し始めました。今日も爽やか、蒸し暑さがありません。秋の気配です。セミも役目を終えたのでしょうか。帰りの草むらでは虫の声も聞かれました。
2017/08/31

青空

青空8-31
が一面に広がっています。カラッとした気持ちのいい天気です。8月も今日で終わり。何をしてきたのだろうという気持ちが残ります。と言うより、一体何をしたいのでしょう。草の方が懸命に生きています。
 ”うれしさを むかしはそでにつつみけり こよいは身にも あまりぬるかな”
こんな心境にはたしてなれるのでしょうか。
2017/08/29

稲刈り

稲刈り8-29
が終わっています。田植えからみると四ヶ月です。早いものです。ところで、草に覆われた田がありました。稲は実っていますが、草に隠れています。綺麗に実っている田では、こまめに草をぬいているのですね。
2017/08/28

葛の花

クズ団栗8-29
が咲いていました。ドングリも小さいながら実をつけています。自然の営みは休まず続けられています。
2017/08/27

納棺尊号

仏花8-27
という言葉を初めて聞きました。今日も聴聞してきました。
 お骨を拾う行為は人間だけがするものです。柩には私の大事にしていたものは一緒してくれません。ただ阿弥陀さまだけが私を摂取して離れないとのことです。そして、私の生き様が南無阿弥陀仏となって繋がっていくといった話しがありました。
 ところで摂取不捨が響かないのはどういうわけかと言うと、自分が自分を捨てていることに気が付かないからだとという話しもありました。これも初めて聞く内容で新鮮でした。こんな話しを聞いていますと、帰敬式を受けて仏弟子として生きていこうかなという思いも出ますが踏み切れません。
 ところで仏華が気になりました。色花は上から白、黄、赤と縦にそろっているものもあれば、必ずしもそうでなく横にも広がっているものもあります。この違いは何によるのでしょう。
2017/08/26

白鳥の国

を読みました。聴聞しなければ決して読むこともないだろうと思われる作品です。自分の思い込みの危うさを知らされます。とは言うもののわたしも同じことをしてきたのだろうと思わされます。善し悪しでは簡単に片付けられそうにも思えません。
 国というのは、白鳥の夫婦が自分たちの規範を持って生活しているということで”国”という言葉が使われているのでしょう。これは家庭についても同じでしょう。結局、わたしのしていることを白鳥に譬えて述べられています。
 最後の「かれらの心臓はいま破裂しそうです・・・・・・。」は何を意味しているのでしょう。いろいろなことを含んでいるのでしょうが、理解できないでいます。

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秋田雨雀 白鳥の国 (新版 赤い鳥代表作集 第1巻 小峰書店 所収)

めいめいは自分ほど世の中を正しく見ている者はないと信じていました。

白鳥夫婦は卵がかえって、その中から自分たちににた美しい白鳥が生まれてくれればいいと、そればっかりを願って暮らしました。

夫婦の白鳥は、四羽の片輪の白鳥を生んだことが気になって、気になって仕方ありませんでした。

白鳥の子というものは、あんなに乱暴なものじゃないのだが、あれはきっと眼がかたわだからかも知れない。わたしたちはまあなんという不幸な鳥だろう!

両親の白鳥は、どうしたら自分たちの心配をなくすることができるだろうと、いろいろと考えて見ました。

かわいそうだがあの子どもたちの幸福のためだ・・・・・・

かれらには世の中がきゅうに暗いところになってしまいました。

かれらの心臓はいま破裂しそうです・・・・・・。
2017/08/25

十七条憲法

寺掲示8-25
 今日も聴聞してきました。自分の考えははたして正しいのか? いろいろと考えさせられるお話しでした。そのことは十七条憲法の十条にはっきり書かれているのでした。びっくりです。
 お寺に掲示がありました。「生き甲斐」とはどのようなことなのでしょう。

 十に曰はく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもえりのいかり)を棄てて、人の違(たが)ふことを怒らざれ。人皆心有り。心おのおの執れること有り。彼是(よみ)すれば我は非(あしみ)す。我是すれば彼は非す。我必ず聖(ひじり)に非(あら)ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫(ただひと)ならくのみ。是(よ)く非(あ)しき理、詎(たれ)か能く定むべけん。相共に賢く愚かなること、鐶(みみかね)の端無きが如し。是をもって、彼人瞋(いか)ると雖も、還(かえ)りて我が失(あやま)ちを恐れよ。我独り得たりと雖も、衆(もろもろ)に従ひて同じく挙(おこな)え。 真宗聖典965頁
2017/08/24

盂蘭盆

とは倒懸という意味があるようです。今日も聴聞してきました。
「目連尊者の母親を餓鬼道から救おうとする思いは、目蓮尊者自身も母親と同じ餓鬼道に墜ちる身であるということです。」といった話しに、「母親は餓鬼道から救われた」目出度し、目出度しと聞いていた私はびっくりしました。
 こんな話しもありました。「人 車 立場立場で 邪魔になり」。まったくもって自分の都合しか考えないわたしがおります。
2017/08/23

蒸し風呂

と言っていいのでしょう。昼頃家を出た途端、熱気が押し寄せてきました。駅までの我慢です。 
 聴聞してきました。何を聞いてきたのでしょう。ちょっと記しておきます。

まさしく有善無善を論ぜず、自功をからず、出離ひとえに他力にあることを明かす。「六要鈔」
無学な凡夫は、みずから死ぬもので、同様に死を免れず、死んだ他人を見て、考え込んでは、悩み、恥じ、嫌悪している。われもまた死ぬもので、死を免れない。自分こそ死ぬもので、同様に死を免れないのに、他人が死んだのを見ては、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、――このことはわたくしにはふさわしくない、と言って。 「中阿含経」第 29 巻 柔軟経
2017/08/20

一泊ヨーガ

ヨーガ研修8-20
に参加してきました。今回は夏、比叡山です。根本中堂の朝事にも参加してきました。また、独特の雰囲気があります。
2017/08/18

聴聞

仏光寺8-18
してきました。本堂に入ったことはありますが、聴聞は初めてです。
 普通の人を強調されますが、小さいときの体験とか、歎異抄との出遇い、その後の人生など、もう不思議という以外ありません。今回も頭の下がったところの話しはありませんでしたが、初めて聞く出会いの話しもあり興味深く聞くことが出来ました。
2017/08/16

サギ

サギ8-16
は何を見ているのでしょう。
 聴聞してきました。一茶の句です。意味もわからず聞いていました。涼しさとは何のことを言っているのでしょうか。
    涼しやな 弥陀成仏の このかたは
    下下も下下 下下の下国の 涼しさよ
    涼しさに 弥陀同体の あぐらかな
2017/08/15

盂蘭盆会

山科別院8-15
に行ってきました。ここは初めての場所です。お盆の話しがありました。「浄土へと往生した人は、如来の願力によってすみやかにさとりをひらき、大いなる慈悲の心をおこす。迷いのこの世に還り来たり、私たちを真実の道へ導こうと常にはたらかれるのである。」とあります。また、お仏飯をいただく心、一粒のお米にもいのちがあると手を合わせる、そんな心を教えられました。
2017/08/14

迷い人

を思い知らされました。何を勘違いしていたのでしょう。習い事が休みとなり、曜日がわからなくなっていました。法話会をネットで探し、その場所に行ったのですが、誰もいません。初めての場所ですので様子がわかりません。いい加減なところだと思いながら帰ろうとしたのですが、収まりません。人を探し聞いてみたところ、日にちを勘違いしていました。私の頭の中の日にちが一日ずれていたのです。やっと私の間違いに気づかされたのです。
 ”本願成就のその御名を 信ずるこころひとつにて”とか ”信心をもつて本とせられ候ふ”とか言われましても、言葉を理解することではないので?です。
2017/08/13

ネズミの巣

黒豆鼠8-13
がありました。いつもは稲刈りのときに空の巣を見るのですが、この時期に見るのは初めてです。子育て中なのでしょう。
 黒豆の花が咲いていました。
2017/08/12

京まふ号

地下鉄8-12
タイムボカン 逆襲の三悪人のキャラクターが印刷されていました。マンガ・アニメフェアの宣伝のようです。 京まふ(KYOMAF)と略称されるようです。
 聴聞してきました。昨日の続きです。「門徒にとって、御開山のお膝もとで、ご飯をいただいて奉仕できることは最上の仕合せです。」 なかなかいい言葉です。このことにより御仏飯のおさがりを調理し、お流れを頂戴するという食事のかたちが出来たようです。如来を中心とした生活のあり方を考えさせるものでした。
2017/08/11

植生

木幡池9-11
の変化を見たいと思います。更地から植生がどのように変わっていくのでしょう。改修工事からまる一年が経過した状況です。放置した田んぼと同じような状態です。田んぼは放置しても耕起しますが、ここはそのままでしょう。さてどうなっていくのでしょう。
 今日も草取りには行かず、聴聞してきました。報恩講の料理の話しがありました。最近では料理を仕出屋に頼むことが多いようですが、今でもお寺に門徒さんが集まって作っているところがあるようです。報恩講料理を食べたいとグルメの会の人たちが、お寺に来られたことの話しが面白かったです。報恩のこころを考えさせられました。 
2017/08/10

サンゴジュの実

サンゴ樹8-10
が朱く色づいていました。今日も暑い日でした。聴聞の部屋は涼しく、居心地がいいです。気持ちよくなってついつい寝てしまいます。何をしに来ているのでしょう。
2017/08/09

セミの抜け殻

大阪城8-9
の上方に成虫のセミがいました。成虫のいのちは一ヶ月くらいと言われます。その間にもクモやスズメバチ、人間に捕らえられたりします。いのちを全うするのはなかなか難しいものです。
 台風が過ぎても涼しくならず、かえって暑くなった感じでぐったりします。
2017/08/08

念仏者の世界 -歎異抄に聞く 二

念仏者の世界8-8
(宗正元 東本願寺出版部)を読みました。念仏の救いについて少しわかった感じです。”摂取不捨”とか”往生浄土”が救いと言われましても、それがどうしたのという思いでした。韋提希夫人の救いも、少しわかった気がします。そこのところを記しておきます。

182-183頁 「私どもの自我の心はこの身に責任は負いません、この身とかこの境遇にですね。こうして生きていることに、身を持ち境遇を持っておることが生きている現実です。この現実に責任を負いません。極端な場合は、そういう意味ではこの身を殺すということがあります。人を殺すだけじゃないですね、いわゆる自殺、そういうことさえあえてするのが私どもの心です。だから主体と言いますと、最後まで運命を共にしていく、それが主体と言われるものです。そういう意味で私は本当の主体ではないです。だから回心というのは特別なことが私どものうえに起こるんじゃなくて、初めてこの身を背負い、この境遇を背負って立つ真実の主体にめぐり遇う、真実の主体に依って立つ、それが回心でございます。またそれが念仏の救いであります。念仏が救いだと言われるのは、そういう回心を成り立たせるからです。つまり南無、帰命の心を成り立たせるのが南無阿弥陀仏です。」

238頁 「本願にたすけられるということは、たすけられる人になるということなんです。たすけられる人になる。阿弥陀如来にたすけられる人になる。まあ、言わば阿弥陀如来にたすけられる人になっておるのが、あの帰命の心です。南無阿弥陀仏という、その南無阿弥陀仏というのが、もう阿弥陀如来にたすけられる心になっている姿です。それで南無阿弥陀仏を回向と言われるんです。如来回向と。」

285頁 「念仏に自信を失うということは、一面から言えば先ほど申しました、身の程を忘れてしまう。念仏が何の役に立つだろうかなんて言って、なにか身の程を忘れてしまう。自分の身が抱えておる根本問題を忘れてしまう。根本問題は拠り処が見出されることなんだというようなこと、帰る処、依って立つ処が見出されるのが根本問題なんだということを忘れて、目の前のいろんな出来事の対応、どうしたらこれを乗り越えていけるかとか、そういうところに心が追われますから、その根本問題を忘れてしまう。ですから念仏に自信が持てなくなる。」
2017/08/07

台風の雨

セミ8-7
が降りしきる中、セミが沢山転がっていました。平安末期であれば、セミでなく人が転がっていたのかと思うと、ちょっと恐ろしいですが、そんな時代がまたやってくるのでしょうか。
 午後からは家にいましたので、昨年末に稲刈りしたトヨサト、黒米、緑米、香り米の籾摺りをしました。